はてな問答〔 歴 史 〕

 

竹内流の

歴史のことなら

何でもなんじゃもんじゃ

 

《「竹内流」の呼び方》

【問い】流儀の呼び方は、「タケウチ流」ですか「タケノウチ流」ですか。

 


 

《古語伝》

【問い】「古語伝」ってなんですか。

【答え】竹内流の歴史を語るときには「こごでん」ということばが盛んに登場しますね。「竹内系書古語伝」のことです。略して「古語伝」とよんでいます。

 要するに、竹内家の系図の添え書きです。系図の解説書です。

 

【問い】どんなことが書いてあるのですか。

【答え】竹内流の代々の師がどんな人であったのか、そのあらましが書かれています。

 たとえば、竹内流の流祖・久盛の名は、この古語伝を読むと元は「久幸」だということが分かります。そして、「後改久盛」(原文)と解説が続いています。現代語訳すれば、「後に、久盛と改める」となります。

 流儀を創始したときの様子を抜き出してみます。

  • 則彼木刀取長キニ無益二ツニ之切小刀トナシ携之曰帯之小具足也・・・(原文)

 なかなか、読みづらいですね。漢字と片仮名です。竹内家が伝承している流儀由来の一部です。

 系図では、人物名とそのつながりだけしか分かりませんね。けれども、『竹内系書古語伝』には、親子兄弟関係や養子縁組のこと、おもなできごと、没年や享年、戒名などが書かれています。竹内家のエキスが盛り込まれていますので、竹内流を継承している代々の師のことも分かるのです。

 

《常陸介》

新規 2017年10月14日

【問い】関白豊臣秀次といえば豊臣秀吉に並ぶ天下の大御所ですね。それなのに、どうして二代目は少しだけしかお仕えしなかったのですか。もったいないですねえ。

【答え】もったいない? それはそうかもしれませんね、関白さんですものねえ。

 二代目の本名は竹内藤一郎でしたね。武者執行(武者修行)の途中の文禄元年(1592)に関白豊臣秀次卿に呼ばれ、「常陸介」の官名を賜りました。しかし、俸禄は断りました。

 えっ、なに? 秀次卿ってどんな人?

 ああ、秀次卿は豊臣秀吉公の養子です。(以下敬称は略します) 前年の天正19年(1591)に秀吉から関白職を譲られたばかりです。秀吉は太閤と号し、秀次が関白。その秀次にお仕えすることは名誉なことです。滅多にないチャンスです。

 「この君に仕えること久しからず」(現代仮名遣い)と『古語伝』には書いてあります。わずかしかお仕えしなかったのです。もったいない、というのはこのことですね。

 「執行を事とし、流儀を広む」(現代仮名遣い)と続きます。

 俸禄を辞退したのは武者執行の身だったからです。流儀を広めようと一念発起しているのです。久勝の気持ちがお分かりですか。

 しばらくは流儀の披露もしたでしょうね。しかし、久勝の思いは固く、やがて北陸路へと修行の旅を続けます。

 おっ、だいじなことを忘れるところでした。このあと大変な事態が起こっています。

 3年後の文禄4年(1595)7月、関白秀次は太閤秀吉に高野山へ追放され、切腹の羽目に至ります。そして、秀次に仕えていた郎党はもちろん、家族も、おつきの者もすべて処刑になってしまいました。

 もしも、二代目が秀次にお仕えする身であったなら?

 もちろん、処刑の一人です。今の「竹内流」は存在しないってことになります。

 あれっ、「歴史」って、ドラマ以上?! 

 

【問い】「武家・・・」の公儀が出たら、二代目は、「武士」になれませんね。それなのに、どうして武術が許されているのですか。

【答え】……近日中に回答!

 

《竹内畝流・竹内新流》

【問い】竹内畝流って何ですか。

【答え】……近日中に回答!

 

【問い】竹内新流って何ですか。

【答え】……近日中に回答!