はてな問答〔 歴 史 〕

 

竹内流の

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《「竹内流」の呼び方》

【問い】流儀の呼び方は、「タケウチ流」ですか「タケノウチ流」ですか。

【答え】流儀の呼び方は「タケノウチリュウ」です。竹内家(たけのうちけ)が代々にわたって伝承している流儀だからです。漢字で「竹内流」と表記してあっても、もちろん「たけのうちりゅう」と読みます。 

【問い】「竹内」の呼び方は、「タケウチ」ですか「タケノウチ」ですか。

【答え】元々は「たけのうち」です。室町時代に流祖久盛の曾祖父(京都在住)が源姓から竹内姓に改称して以来、数百年にわたってそう呼ばれてきました。明治のはじめに新戸籍法が発令されてからは、日常生活の中では「たけうち」と呼ばれることが多くなりました。現在でも近隣の方々は、「たけのうちけ(竹内家)」「たけのうちさん(竹内さん)」「たけのうっつぁん(岡山弁)」などと呼んでいます。

 もちろん、「竹内流」は「たけのうちりゅう」です。竹内家の関係者が演武をするときには、日常生活の姓の呼び方「たけうち」ではなくて、代々にわたって伝えられている「たけのうち」の呼称で呼んでもらっています。


 

《古語伝》

【問い】「古語伝」ってなんですか。

【答え】竹内流の歴史を語るときには「こごでん」ということばが盛んに登場しますね。「竹内系書古語伝」のことです。略して「古語伝」とよんでいます。

 要するに、竹内家の系図の添え書きです。系図の解説書です。

 

【問い】どんなことが書いてあるのですか。

【答え】竹内流の代々の師がどんな人であったのか、そのあらましが書かれています。

 たとえば、竹内流の流祖・久盛の名は、この古語伝を読むと元は「久幸」だということが分かります。そして、「後改久盛」(原文)と解説が続いています。現代語訳すれば、「後に、久盛と改める」となります。

 流儀を創始したときの様子を抜き出してみます。

  • 則彼木刀取長キニ無益二ツニ之切小刀トナシ携之曰帯之小具足也・・・(原文)

 なかなか、読みづらいですね。漢字と片仮名です。竹内家が伝承している流儀由来の一部です。

 『系図』では、人物名とそのつながりだけしか分かりません。けれども、『竹内系書古語伝』には、親子兄弟関係や養子縁組のこと、おもなできごと、没年や享年、戒名などが書かれています。竹内家のエキスが盛り込まれていますので、竹内流を継承している代々の師のことも分かるのです。 

《常陸介》

【問い】関白豊臣秀次といえば豊臣秀吉に並ぶ天下の大御所ですね。それなのに、どうして二代目は少しだけしかお仕えしなかったのですか。もったいないですねえ。

【答え】もったいない? それはそうかもしれませんね、関白さんですものねえ。

 二代目の本名は竹内藤一郎でしたね。武者執行(武者修行)の途中の文禄元年(1592)に関白豊臣秀次卿に呼ばれ、「常陸介」の官名を賜りました。しかし、俸禄は断りました。

 えっ、なに? 秀次卿ってどんな人?

 ああ、秀次卿は豊臣秀吉公の養子です。(以下敬称は略します) 前年の天正19年(1591)に秀吉から関白職を譲られたばかりです。秀吉は太閤と号し、秀次が関白。その秀次にお仕えすることは名誉なことです。滅多にないチャンスです。

 「この君に仕えること久しからず」(現代仮名遣い)と『古語伝』には書いてあります。わずかしかお仕えしなかったのです。もったいない、というのはこのことですね。

 「執行を事とし、流儀を広む」(現代仮名遣い)と続きます。

 俸禄を辞退したのは武者執行の身だったからです。流儀を広めようと一念発起しているのです。久勝の気持ちがお分かりですか。

 しばらくは流儀の披露もしたでしょうね。しかし、久勝の思いは固く、やがて北陸路へと修行の旅を続けます。

 おっ、だいじなことを忘れるところでした。このあと大変な事態が起こっています。

 3年後の文禄4年(1595)7月、関白秀次は太閤秀吉に高野山へ追放され、切腹の羽目に至ります。そして、秀次に仕えていた郎党はもちろん、家族も、おつきの者もすべて処刑になってしまいました。

 もしも、二代目が秀次にお仕えする身であったなら?

 もちろん、処刑の一人です。今の「竹内流」は存在しないってことになります。

 あれっ、「歴史」って、ドラマ以上?! 

 

【問い】「武家・・・」の公儀が出たら、二代目は、「武士」になれませんね。それなのに、どうして武術が許されているのですか。

【答え】……近日中に回答!

 

《竹内畝流・竹内新流》

【問い】竹内畝流って何ですか。

【答え】「竹内畝流」と呼ばれる流儀は現存しません。『竹内系書古語伝』には、二代目竹内常陸介久勝の兄・竹内五郎左衛門久治が継いで一案凝らした「竹内流」が俗にそう呼ばれていると紹介されています。しかし、兄久治の流儀は、「竹内流」です。弟・常陸介久勝の流儀と区別するために便宜上そう呼ばれているだけです。もちろん、兄・五郎左衛門久治代々の『竹内流捕手腰之廻』の巻物も現存しています。

 

 えっ、『竹内畝流』と書いた巻物? 

 そんな伝書は、この世には一本も存在しません。

 

【問い】竹内新流って何ですか。

【答え】「竹内新流」と呼ばれる流儀は現存しません。二代目竹内常陸介久勝の兄・竹内五郎左衛門久治が継いで一案凝らした「竹内流」が「竹内系書古語伝」で俗にそう呼ばれていると紹介されましたので、誤解されたようです。もちろん、兄の流儀も「竹内流」であり、「竹内新流」と書いた巻物はこの世には一本も存在しません。

 

【問い】俗に「竹内畝流」とか「竹内新流」と呼ばれた流儀(竹内五郎左衛門久治が継いだ「竹内流」)は、現在、誰が継承しているのですか。

【答え】誰も継承していません。久治から数えて九代目竹内虎治郎久信に至って、庄屋多忙のために流儀継承不能となり失伝

 その子・竹内久米太郎久治は年寄役となったが、手元に流儀の目録は残されていても、形の流れや心持ちなどを伝承することは出来なくなっていた。

 それ以降、流儀そのものは失伝しても、流祖久盛の血脈は子孫に継承されている。墓地は石丸屋敷の近くに存在。