竹内流の由来

親・子・孫の三代にわたって集大成!


竹内流は、天文元年(1532)に

竹内中務大輔久盛(作州一ノ瀬城主)が編み出した武術です。

その流儀は、親(流祖)・子(二代目)・孫(三代目)

三代にわたって集大成!

そんなに長い間? 驚きですねえ。

 

竹内家(藤一郎家・藤十郎家)所蔵の

『竹内系書古語伝』(以下、『古語伝』と略)から

三代の代表的な言い伝えを紹介しましょう。

*「中務大輔」=なかつかさだゆう

*「一ノ瀬城」=いちのせじょう・

*「古語伝」=こごでん・・・・・

〈おもな項目〉

◆流 祖:久盛

◆二代目:久勝

◆三代目:久吉

◇宗家・相伝家


〔一〕流祖 久盛

(一)久盛は一ノ瀬城主!

流祖久盛が生まれた京の都は荒れ果てて・・・
流祖久盛が生まれた京の都は荒れ果てて・・・

《京都生まれの久盛》

 竹内流の始祖は竹内中務大輔久盛(ひさもり)です。竹内流三代の”親”です。竹内家では「ご先祖さま」と呼んでいます。

 

 文亀3年(1503)、久盛は従四位竹内近江守幸治(ゆきはる)の子として京都で生まれました。名は久幸(ひさゆき)で、後に久盛と改めます。家は天皇にお仕えするのが仕事でした。

 

 当時は応仁の乱の影響で、京の都は荒れ果てていました。

 

 

流祖久盛が一ノ瀬城を築いた一ノ瀬山 北側からの遠望
流祖久盛が一ノ瀬城を築いた一ノ瀬山 北側からの遠望

《垪和の久盛》 

 永正15年(1518)頃の少年期、久盛は二従兄弟にあたる竹内駿河守八郎為長(ためなが)と弟の竹内備中守為就(ためなり)の一行に連れられて美作国・作州垪和郷(今の岡山県久米郡美咲町・岡山市北区建部町の一部)へ移住しました。今でも広義に「はが」と呼ばれている一帯です。父の幸治や叔父の従三位竹内大膳太夫基治(もとはる)は天皇にお仕えする身でしたので、都に滞在したままです。

 

 一行は本拠地をはがの石丸(現岡山市北区建部町和田南)に構えました。「いしのまる」です。そして、鶴鳴山城を攻略して鶴田城と改め、八郎為長が城主となりました。「たづなき」とか「たづた」とか、美しい名前ですね。このとき、竹内駿河守為長は垪和八郎為長と名を改めました。竹内から元々の姓・垪和(芳賀)への改姓です。久盛は為長・為就兄弟に世話されながら新たな城の築造に励みました。

 

流祖久盛が居城した一ノ瀬城本丸跡 一代限りの夢の跡となりました
流祖久盛が居城した一ノ瀬城本丸跡 一代限りの夢の跡となりました

《一ノ瀬城主の久盛》

 20歳を迎えた大永2年(1522)頃、一ノ瀬城(現岡山県久米郡美咲町西垪和)が完成しました。久盛は1万3千石の城主となりました。

 

 一ノ瀬城は山城です。標高は240m。大川(後に旭川)が麓を流れ、小さな川港があります。山の斜面に田畑が開墾され、周囲は草木が生い茂っています。急峻な山また山の土地柄です。垪和八郎為長の鶴田城からは10㎞ほど上流の位置です。

 

 騎馬を駆け巡らして戦闘することが困難な山間の地です。槍や太刀を振り回したら草木に邪魔されてしまうほどの深山幽谷の地域です。久盛はこんな領地の城主となったのです。

《久盛の名前》

 久盛の名は、「たけのうち・なかつかさだゆう・ひさもり」と伝承されています。

 漢字では「竹内中務大輔久盛」とか「竹内中務太夫久盛」「竹内中務丞久盛」などと史料によって異なっていますが、竹内家では代々伝承されている口承どおりの呼び方をすることになっています。

 ちなみに、竹内家の系図の添え書き『古語伝』では最初に掲げた表記「竹内中務大輔久盛」になっています。

 

*「垪和郷」=はがのごう

*「石丸」=いしのまる

*「鶴鳴山城」=たづなきやまじょう

*「鶴田城」=たづたじょう

*「一ノ瀬城」=いちのせじょう=一之瀬城

 

 

(二)齢三十にして「一尺二寸」の小刀に開眼 !

二尺四寸の木刀を二つに ⇒ 一尺二寸の小刀!
二尺四寸の木刀を二つに ⇒ 一尺二寸の小刀!

《流儀創始の説話》 

 群雄割拠の戦国時代のことです。主が城を留守にすることは危険極まりないのですが、一ノ瀬城主である久盛はこっそりと城を抜け出し、西垪和三ノ宮にこもりました。

 

 久盛は、幼少期から「勇壮アリ好剣(古語伝 原文)という人でした。そのために、小さな山城を拠点とする戦では、長い柄物を持った接戦よりも柄物を短くして組討ちをする方が有利なのではないかと考えました。そこで、普通よりは少し短い木刀を用意しました。二尺四寸(約72㎝)の長さです。

 

 太刀に比べればずいぶん短いこの木刀で、大樹を打ったり飛跳したりして鍛練を重ねました。試行錯誤しながら形のあれこれを試しました。もちろん、大樹を敵に見立てての工夫鍛練です。

 

 六日が経って夕方となりました。もうくたくたです。心身ともに疲れ果ててしまい、つい、木剣を枕にして横になってしまいます。天文元年(1532)旧暦6月24日、久盛が30歳の壮年期のことです。

 

 名を呼ばれる声に久盛が目を開けると、北の空に白髪の山伏の姿がありました。顔かたちが暴猛で眼光が鋭く、身の丈七尺余り(210㎝少々)。妖怪のような大男です。久盛は木刀を取って戦を挑みましたが組み敷かれてしまいました。

 

 この世の者とは思われない大男と久盛とのやり取りが始まります。

 

 山伏は言いました。

  • 「長キニ益(やく)ナシ(原文)「長いものは役に立たない」(現代語訳)

 そして、木刀を二つに切って、一尺二寸(約36㎝)の小刀(小具足)にしてしまいました。

 

 小刀? 短い刀です。「しょうとう」といいます。竹内家の系図の添え書き『古語伝』に登場する用語です。

 

 さらに、続けます。

  • セハ小具足ナリ(原文)「腰に差したら小具足である」(現代語訳)

 小刀を腰に差して、捕手五件の形を稽古しました。また、木に巻きついているカズラを取って、武者をからめ取る術(捕縄)の稽古もしました。

 

 すでに、日は西に傾いていました。突然、神風が巻き起こり、土砂が舞い上がり、雷鳴が轟き渡りました。

 このときの様子を『古語伝』では次のように記述しています。

  • 「神息風、土砂塵埃、雷電震動シテ、始ルトコロノ客帰ラズ(現代仮名遣い)

 こんなことはあり得ないというような、実に不可思議な情景です。これが『古語伝』の記述です。

 

 はっと気がつきました。その時には、あれれ、どうしたことでしょうか、先ほどの客人、始め見るところの客の姿は消え失せていました。

 

 どうやら久盛は、夢うつつの中で捕手の流儀を悟ったようです。六日間の修業の成果がやっと結実したのです。これは竹内家の口承です。

 

 あの山伏の姿は愛宕の化身だったのでしょうか。久盛は、下弦を過ぎた月明かりの中で夜を徹して愛宕の神を礼拝しました。

  • ソノ通夜礼拝(現代仮名遣い)

 そして、捕手五ヶ条の形と武者を搦め捕る捕縄の結び方を繰り返してみました。

  • 「以来、受ケルトコロノ五件ヲモッテ悴家捕手トス。小具足組討ヲモッテリトス。ソノ妙域ル」(現代仮名遣い)

 

 齢三十にして一尺二寸の小刀と捕縄に開眼! 群雄割拠の戦国時代に武将を生け捕りにするための秘術、悴家の捕手、「竹内流捕手」の誕生です。『竹内系書古語伝』には、流儀創始の由来を荘厳化する説話が延々と語られています。

 

 愛宕の化身・山伏から伝授されたという「神伝捕手五ヶ条」と武者を縄で搦め捕る「武者搦」は、幼少期から剣を好んでいた久盛自身の集大成の象徴です。修業の成果を自らの成果としないで 神伝とする考え方は二代目以降も引き継がれます。そして、竹内家では、今もなお愛宕神を祭祀し続けています。

 

    ➡行事/大会情報ページの「愛宕さまのお祭り」を参照

 

 

《捕手腰廻小具足》

 小刀を駆使する「捕手腰廻小具足」(とりてこしのまわりこぐそく)は、戦国時代には異色のわざでした。

 

 竹内流では、小刀のことを「小具足」と呼び、また、小刀を駆使する術技のことも「小具足」と呼んでいます。この小具足組討のことを竹内流では「腰廻」と呼ぶことになっています。

 

 次は、竹内家の『古語伝』の記述です。

  • コレヲセバ小具足ナリ。今、小刀小具足トイウコト、蓋シココヨリウノミ(現代仮名遣い)
  • 「小具足組討ヲモッテ腰廻(現代仮名遣い)

 以来、竹内流の目録には「捕手腰廻小具足」「捕手腰之廻小具足」「腰廻小具足」「腰之廻小具足」などと書かれるようになりました。

 

 この腰廻は、やがては素手で相手を捕らえる「羽手」(はで)へと発展することになります。

 

*「小刀」=しょうとう

*「愛宕の化身」=あたごのけしん

*「神伝捕手五ヶ条」=しんでん・とりて・ごかじょう

*「武者搦」=むしゃがらめ

*「羽手」=はで

 

 

(三)一ノ瀬落城後は「竹内流」を家芸に!

「ハガンサマ」と呼ばれている新城の久盛の墓。昭和40年代に撮影。
「ハガンサマ」と呼ばれている新城の久盛の墓。昭和40年代に撮影。

《一ノ瀬落城と新たな道》

 天正8年(1580)、久盛は岡山城主宇喜多直家の大軍に一ノ瀬城を攻略されました。毛利輝元軍の加勢もなく落城し、播州へと逃げのびます。すでに齢78歳で、領地領民を治める道とは決別する意志を固めます。帰農です。

 

 3年後、久盛は息子らと一族の本拠地石丸で 再会しました。自らが編み出した流儀「捕手腰廻小具足」はすでに有名になっていましたので、これを家芸として生計を立てる道を息子二人に託します。新たな生き方です。一子相伝の原点です。

 

 親の思いを継ぐことになった長男は竹内五郎左衛門、次男は竹内藤一郎でした。

 

《晩年の久盛》 

 段取りを済ませた久盛は、原田庄(現岡山県久米郡美咲町)の原田三河守に嫁いだ娘の厄介となります。そして、文禄4年(1595)旧暦6月晦日、93歳の生涯を閉じました。新城の墓地には石塁の上に五輪があり、手前の墓石には「竹内中務大輔久盛墓」と刻字されています。

 

 この久盛のお墓は、地元の人からは「ハガンサマ」と呼ばれています。なぜ? 「はてな問答」をご覧ください。

 

 竹内家の墓所にある石碑は昭和11年8月に建立したものですが、「寶朱院殿榮照山道義大居士」と刻字してあります。京都の従四位竹内惟斌子爵の謹書です。また、竹内家ではご先祖さまと呼んでいますが、仏壇に安置されている位牌には、「寶朱院殿榮照山道義大居士尊霊」と朱漆書きされています。

 

*「帰農」=きのう

*「石丸」=いしのまる

 

 


〔二〕二代目 久勝

(一)「常陸介」に任じられた二代目

二代目創始の必勝五ヶ条「よろいぐみ」   演武は相伝家十三代目と嫡男
二代目創始の必勝五ヶ条「よろいぐみ」   演武は相伝家十三代目と嫡男

 

《二代目と “武名” 》

 竹内流の二代目は、竹内常陸介久勝です。父・久盛が65歳のときに側室との間に生まれた次男で、本名は藤一郎です。竹内流三代の ”子” にあたります。

 

 一ノ瀬落城の折には、藤一郎は14歳でした。戦乱のむごさ惨めさを目の辺りにしました。

 

 『古語伝』ではこのときの心情を端的に表現しています。

  • 「微運(古語伝)

 微運? なるほど!

 

 このマイナスイメージが

  • 「武名四方サント(古語伝)

というプラスの原動力となりました。

 

 天正14年(1586)旧暦6月24日、20歳のときですが、愛宕神に祈りを捧げて「必勝五ヶ条」を編み出します。その後、諸侯から仕官の招きがありましたがすべて断り、「武名ヲ後代二留メン」(古語伝)と欲する一心でした。 

 

《二代目と武者修行》 

 天正17年(1589)23歳の春、藤一郎はついに武者執行(武者修行)に旅立ちました。

 

 仕合を乞う人があれば

  • 「吾勝ツト末タリ」(古語伝)

と豪語し、あえて乞う人には

  • 「真剣ヲ以テ雌雄ヲ決ス」(古語伝)

という修行の旅でした。まるで命がけです。

 

  筑前博多では、高城玄蕃という豪傑と真剣勝負をしました。

  • 「止ム事無ク遂二之ヲ刺ス 嗚呼惜シムヘシ」(古語伝)

という名勝負です。竹内家が伝承している八ヶ条之事の一つ「玄蕃留之事」として今に伝わっています。

 

 このほかにも、越前木ノ芽峠で中村武太之進を仕留めたときの「中村留之事」など、当時の真剣勝負がそのまま「形」として残されています。これらの形は『日本柔術の源流 竹内流』(日貿出版)などで公開していますが、その稽古や演武は竹内流門下の高弟に限られています。

 

 文禄元年(1592)、武者執行の途上なのですが、藤一郎は京都で関白豊臣秀次卿に召されました。そして、名を「常陸介」と任じられました。以後、「竹内常陸介久勝」と名乗るようになります。久勝は諱です。俸禄は辞退し、数日間お仕えしただけで武者執行の旅を続け、竹内流の名を広めました。

 

 えっ、数日間だけのお仕え? もったいない? あとは、「はてな問答」をご覧ください。

 

*「高城玄蕃」=たかぎ げんば

*「関白豊臣秀次卿」=かんぱく とよとみ ひでつぐ きょう

*「常陸介」=ひたちのすけ

*「武者執行」=むしゃしっこう:「武者修行」と同じ

*「俸禄」=ほうろく

 

 

(二)「日下捕手開山」の御綸旨

津山鶴山公園内の森忠政公座像
津山鶴山公園内の森忠政公座像

《角石谷村に居を構えた二代目》

 慶長元年(1596)、久勝は8年間の武者執行の末に故郷の石丸へ帰りました。竹内藤一郎ではなくて、秀次卿から賜った常陸介の官名を名乗ります。藤一郎を本名として残しながらも、竹内常陸介久勝です。すでに武名が高く、業形を増やしていましたので、兄久治と一緒の稽古場では互いに気まずい思いをします。そこで、和田南村石丸の兄と別離して角石谷村豊作地原(ぶさちはら・後のたけのうちばら)に家宅・稽古場を構えます。山奥の谷間で小さな滝谷川のほとりなのですが、各地から武者修行者が続々と入門しました。

 

 慶長9年(1604)のことです。美作国津山へ入封された森忠政公から竹内兄弟を召し抱えるという話がありました。兄の久治には5百石、弟の久勝には3百石で在所に居住を許すというのです。兄弟はこの公命を辞退しました。何と、3回も断ったのです。すると、公儀から「日本武家奉公差留」となってしまいました。あれれ、これでは「武士」にはなれません。これには後日談があります。「はてな問答」をご覧ください。

 

《二代目と日下捕手開山》

 元和元年(1615)、久勝は、元服をした13歳の歌之助に藤一郎を名乗らせることにしました。そうなんです、二代目の本名藤一郎は、その後竹内家で代々相続襲名されることになるのです。

 

 元和4年(1618)、竹内常陸介久勝は長男の藤一郎久吉を連れて京都の西山辺に稽古場を構えました。その表口には、

  • 「日本宗道」
  • 「捕手腰廻小具足組討師範」
  • 「予ニ勝ツ人有ハ来タリテ勝負ヲ決スヘシ 竹内久勝」

と表札を掲げました。

 

 その2年後の元和6年(1620)春、久勝は後水尾天皇に息子の久吉との演武を叡覧して戴きました。そして宮中雨林に任じられ、「日下捕手開山」の御綸旨を賜りました。久勝54歳、久吉18歳のときの栄誉です。

 

 以降、「日下捕手開山」の六文字は竹内流の象徴となり、流祖、二代目の血を引く竹内家が脈々と継承しています。現在では、藤一郎通居の竹内藤一郎家だけが流名や道場名などにこの称号を使っています。

 

*「石丸」=いしのまる

*「角石谷村」=つのいしたに むら

*「豊作地原」=ぶさちはら:史跡ページで解説

*「森忠政」=もりただまさ

*「日本武家奉公差留」=にほん ぶけ ほうこう さしとめ

*「日本宗道」=ひのもとそうどう

*「宮中雨林」きゅうちゅう うりん

*「日下捕手開山」=ひのした とりて かいさん

*「御綸旨」=ごりんじ

 

 

(三)弟子墨付き2千3百余!

愛宕さまの上に掲額された掟
愛宕さまの上に掲額された掟

 《二代目と掟》

 武名を四方に輝かせ後代に留めようとした二代目竹内常陸介久勝は、真剣勝負や流儀の天覧など華々しい活躍をしました。

  • 「一世弟子墨附二千三百余有」(古語伝)

と隆盛を極めました。この久勝の流れが、現在の竹内宗家・相伝家の流れとなります。

 

 現在に続いている竹内流の「」は、この久勝が制定したものです。

  • 決まり事はきちんと守りなさいよ。
  • みんな仲良くしなさいよ。

 江戸時代の竹内流には、武士はもちろん、庶民も入門していました。当然、一緒に稽古をします。そこには、身分に関係なく門人が守るべき規範が必要だったのです。

 

 その掟の九番目には、異色な項目が設けられています。

  • ほかの人に竹内流の師を名乗らないでくださいよ。

 二代目は、流儀の形を広め、秘伝をまとめました。これらを伝授する師は誰か、久勝は自問自答し、竹内家を継ぐ者に一本化することが父久盛の遺志だとあらためて決断しました。それが「掟」という形で現在へ続いています。

 

 当然のことながら、長男の藤一郎久吉、後の加賀介久吉に竹内流の三代目を継承させることになります。

 

《二代目の晩年》 

 竹内流の伝書の奥書には、

  • 「久勝伝
  • 「久勝伝来」

という表現が多く見られます。ということは、「久勝」を抜いては流儀が語れないほど重要な人物であることに他なりません。流祖久盛の創始した流儀は、二代目によってゆるぎないものへと進化を遂げているのです。

 

 晩年の二代目は、流儀の師を三代目久吉に託し、七十代、八十代の余生を静かに送ります。そして、寛文3年(1663)9月10日、97歳で没しました。

 

 えっ、97歳? 目を疑う、いや、耳を疑うような長寿です。

 

 竹内家の仏壇には、「正覺院日證常雲禅定門尊霊」と朱漆書きされた位牌が安置されています。そこには「行年九十七歳」の文字が見えます。古語伝にも「行年九十七歳」と明記されています。

 

 竹内家の墓所にある二代目の墓石は風化に耐えています。そこには350年余の時間が流れています。しかし、「二代目」の3刻字は妙に鮮やかに、今に生き続けています。

 

*「天覧」=てんらん

*「墨附」=すみつき

*「規範」=きはん

*「宗家」=そうけ

*「相伝家」=そうでんけ 

 



附】二代目の兄 久治

「垪和一之瀬城竹内中務大輔久盛落城地」の石碑が建立されている石丸屋敷
「垪和一之瀬城竹内中務大輔久盛落城地」の石碑が建立されている石丸屋敷

《二代目の兄 久治》

 流祖久盛の長男竹内五郎左衛門久治は、父・久盛と正室の間に生まれた子です。天正8年(1580)の一ノ瀬落城の折には四十代に達しており、すでに78歳を迎えていた父を補佐しながら城代として大活躍をしました。

 

 一ノ瀬落城後は加須谷助衛門の世話になり、2年後に一族の本拠地「石丸」(現岡山市北区和田南)に居を構えました。現在は石丸屋敷として残っています。

 

 慶長9年(1604)に森忠政公が美作国津山へ入封されたのですが、名士を四方に求めました。その際に、久治には5百石、その弟・久勝には3百石で在所に居住を許すという話がありました。兄の久治はこの公命を辞しました。角石谷村に稽古場を構えていた弟も同じです。

 

 すると、公儀から「日本武家奉公差留」となってしまいました。後日談は、「はてな問答」(歴史編)に載せる予定です。

 

 

 

《兄 久治の流儀》

 久治は、一族の本拠地石丸で流儀の伝授を続けました。流儀は、弟・久勝と同じく「竹内流」です。久治以降の代々の師が伝授した目録には「竹内流捕手腰廻」とか「流祖・竹内中務大輔久盛」などと記されています。竹内一族の兄弟ですので当然です。

 

 しかし、久治は、武者修行で名を馳せて一躍有名になった弟に負けまいと、

  • 「一流ヲ立テ弘メント」(古語伝)

して業形を工夫し、広めました。そのため、弟の流儀と区別するために「竹内畝流」とか「新流」と呼ばれています。

 

 おっとっと、「竹内畝流」や「新流」という名称の流儀は存在しません。呼称として『竹内系書古語伝』に登場するもので、これが書籍などで紹介されて広まりました。前述したとおり、兄の流儀も弟の流儀も「竹内流」であり、「竹内流腰廻小具足」なのです。もちろん、「竹内畝流・・・」とか「竹内新流・・・」と書いた目録はこの世には皆無です。

 

《兄 久治の系譜》 

 兄久治の系譜は、久治から数えて九代目の竹内虎治郎久信まで続きました。しかし、久信の子は業形を継ぎませんでした。そのために、子から子(養子を含む)へという竹内流の伝承形態は完全に途絶えてしまい、流儀は失伝してしまいました。

 

 久治以降の竹内家は「竹内宗家」と呼ばれています。その分家もあります。数百年を経た現在、住み替えなどで環境は大きく様変わりしていますが、久治の血脈は十数代を経て現在も脈々と続いています。 

 

*「石丸」=いしのまる

*「日本武家奉公差留」=にほんぶけほうこうさしどめ

*「畝流」=うねりゅう

 


〔三〕三代目 久吉

(一)「予必勝」と豪語

     われ、かならず勝つ!

『古語伝』の久吉に関する記述の一部
『古語伝』の久吉に関する記述の一部

 

《小兵の三代目》

 三代目を継ぐことになる久吉は二代目の長男で、幼名は歌之介。竹内流三代の”孫”です。身長四尺八寸(約144㎝)足らずの小兵でした。しかし、術技は秀でており、後に数々の武勇伝を残すことになります。

 

 元和元年(1615)、元服した13歳の久吉は父の本名・藤一郎を継ぎました。そして、晩年まで竹内藤一郎久吉の名で通すことになります。

 

 翌2年(1616)には、京都に稽古場を開いた父に同行して流儀を広めます。14歳ですね。

 

 その4年後には18歳となりますが、久吉は父と一緒に捕手の術技を演武し、後水尾天皇の叡覧に浴することとなりました。これは画期的な出来事で、二代目竹内常陸介久勝が「日下捕手開山」の称号を賜ったときの父子なのです。

 

《三代目の武者修行》 

 元和6年(1620)冬、18歳の久吉は流儀を広めようと武者執行(武者修行)に旅立ちます。問う者がいたら

  • 「われ(予)必ず勝つ」(現代語訳)

と答えていました。

 

 長崎では身長6尺3寸(約189㎝)の五嶋隼人を組み伏せ、門人にしました。与州河野では、初老(40歳)なのに六十人力という伊藤又兵衛を門に従えました。

 

 また信州の諏訪では、身長六尺八寸(約204㎝)、八十人力の高木藤右衛門と無刀で仕合をして組み伏せ、縄を掛けました。そして門に従え、関東巡行中は稽古相手として同道したということです。武勇伝はまだまだ続きます。

 

 五畿七道を10年間遊歴して帰郷しました。28歳です。諸侯から召し抱えるとの沙汰がありましたが、父同様に官禄を辞退しました。しかし、流儀の指南には快く応じています。

 

*「日下捕手開山」=ひのしたとりてかいさん

 

 

 

(二)高木右馬之助との御前試合

二代目は高木右馬之助を投げ飛ばしますが……
二代目は高木右馬之助を投げ飛ばしますが……

 

《大男 vs. 小兵》

 久吉といえば、津山城主森公の家臣高木右馬之助重貞との御前試合が有名です。右馬之助は身長6尺8寸(約204㎝)で五十人力の剛勇です。これに対して四尺八寸(約144㎝)足らずの小兵、藤一郎久吉が立ち向かうのです。

 

 まずは久吉が右馬之助のひざを蹴り上げ、後ろ向きになります。右馬之助は久吉を強く羽交い締めにします。策略どおりの「おおごろしはずれなし」の形です。久吉は右馬之助を岩石投げにして縄を掛けます。しかし、縄は引きちぎられます。再度縄をかけても引きちぎられます。三度目には真紅の縄を掛けて懐剣をのどに当てました。すると、御前から勝負ありとの声があって、双方は平伏しました。

 

 このような経緯で右馬之助は竹内流の門に入りました。師は、父 二代目常陸介久勝です。捕手腰廻小具足の形の指南を受け、目録が授与されました。しかし、掟によって竹内流の師を名乗ることはできません。そこで右馬之助は、いくつかの形を整理統合して「高木流」の業形に昇華させました。それから380年を経た現在、高木流は楊心流・九鬼神流と統合され、神戸の地で継承されています。

 

*「右馬之助」=うまのすけ

*「小兵」=こひょう

*「高木流」=たかぎりゅう

*「楊心流」=ようしんりゅう

*「九鬼神流」=くきしんりゅう

 

 

(三)「加賀介」の官名と「藤一郎」通居

三代目が新築し、七代目が修復した坂元の居宅。現在消失。
三代目が新築し、七代目が修復した坂元の居宅。現在消失。

 

《官名・御綸旨・通居》

 寛文3年(1663)、久吉は長男の弥五左衛門久且、次男の角左衛門久次(後の四代目)と一緒に京都へ出向き、関白鷹司殿下へ伺候しました。もちろん、竹内流捕手の演武をしています。ここで加賀介に任じられ、竹内加賀介久吉を名乗るようになります。久吉61歳のときです。また、「日下捕手開山」の御綸旨と三十六歌仙の御宸筆を賜りました。あれれ、日下捕手開山は、久吉が14歳のときに父が賜っています。捕手を家芸としている竹内家としては、二度目の快挙です。

 

 また、久吉は「竹内相続・藤一郎通居を仰せつかりました。代々にわたって竹内家の家督を相続し、相続した者は代々にわたって藤一郎を名乗るがよいというものです。やがては次男角左衛門久次が家督を継ぎ、竹内藤一郎を名乗るようになります。

 

  晩年の久吉は大事業に取りかかることになります。自分が生まれた豊作地原(ぶさちはら)から中腹の坂元(現在の宗家道場のある一帯)へ屋敷を移しました。家宅を普請し、「開か(け)ずの間」を設けて祖神を勧請しました。稽古場を建てたのですが、稽古の気合や音に牛馬が驚くので道を付け替えたという話が『古語伝』に残っています。

  • 「竹内ノ稽古ノ声絶エズ。故ニ畝ヨリ往来ノ牛馬驚イテ行カズ。故ニ、別ニ往来路ヲ付ケ替エタリ」(現代仮名遣い)

 今までの古い屋敷のあった所や豊作地原一帯は、その後、「竹内原」(たけのうちばら)と呼ばれるようになっています。

 

 門人墨附きは三千八百余。寛文11年(1671)3月6日、69歳で永眠。没後350年を経ていますが、竹内家の仏壇には「清雲院月山浄教居士尊霊」と朱漆書きされた位牌が今も安置され、子孫を見守っています。また墓石は竹内家の墓地で 風化に耐え、静かにたたずんでいます。 

 

*「御宸筆」=ごしんぴつ

*「伺候」=しこう

*「通居」=つうきょ

*「勧請」=かんじょう

 


附】宗家・相伝家による伝承

 

《師の継承》

 美作国垪和郷の一ノ瀬城主 竹内中務大輔久盛が編み出した「竹内流」と呼ばれる武術。その竹内流三代といえば、

  • 流祖 竹内中務大輔久盛
  • 二代目 竹内常陸介久勝
  • 三代目 竹内加賀介久吉

です。この「親・子・孫」の三代にわたって流儀は集大成されました。

 

 領地領民を治める城主の身から帰農し、自ら創始した武術を家芸とすることを息子に託した流祖 久盛。その親の意思を継いだ子、さらに孫。竹内流の業形は揺るぎないものとなり、二代目の墨附きは二千三百余人、三代目の墨附きは三千八百有余人と驚くべき門人数となりました。

 

 三代目が没してから43年後の正徳4年(1714)、『本朝武藝小傳』巻の九が刊行されました。このような紹介があります。

  • 「小具足、捕縛はその伝承あること久し、もっぱら小具足を以て世に鳴るは竹内なり、今これを腰之廻という」(現代仮名遣い)

 四代目竹内藤一郎久次が流儀を継承している頃に書かれた本です。五代目竹内藤一郎久政が江戸に出立するより前のことです。「腰廻小具足で世に鳴り響いている流儀は竹内流だ」と断言しているのです。

 

 この竹内流は、二代目竹内常陸介久勝が「掟」で特別なお膳立てをしました。

  • 「師を名乗ること仕間敷こと」(掟の九番目)

 門人は竹内流の師を名乗らないでねと釘を差しました。竹内家の子が師となり、またその子が師となって流儀を継承できるように定めたのです。

 

 

《宗家と相伝家》 

 七代目までは一時の危機があったものの、順調に継承ができました。しかし、八代目 竹内藤一郎久愛(ひさよし)のときに大きな危機が訪れました。40歳になって一人っ子を授かって藤十郎と命名していたのですが、この子が7歳の春、八代目は体調不良を感じ始めました。このままでは流儀が廃れることを恐れました。そこで大英断です。

  • 「流儀の廃れんことを恐れ、甥久雄を以て嫡子とす」(現代仮名遣い)

 久雄(ひさかつ)というのは、弟竹内政次郎久職(ひさもと)の長男 竹内角之氶14歳のことです。久職は2年前に亡くなっておりますので、久愛は残された角之氶を養育していました。その角之氶を養子として家督を継がせるのです。もちろん、藤一郎を襲名させます。

 

 では、久愛の一人っ子藤十郎は? 母もろとも分家させる構想です。弟久職が文政5年に建て、久雄が生まれ育った家があります。そこへ母と一緒に住まわせることに決めました。

 

 天保7年(1836)の7月、とうとう久愛は病に伏せるようになります。9月には次第に病が重くなり9月19日、ついに帰らぬ人となりました。

  • 「母ともに分家す 則ち家督諸事二つに分け別かる」(現代仮名遣い)

 久種は母に連れられて分家です。宅地、田地畑地、山林はそれぞれを半分に分け、墓地は共同。家伝の流儀は同じものをそれぞれが管理運営します。

 

 流儀を二本立てにしておけば、流祖以来の血脈は絶えないだろうと見込んでの策です。

 

 えっ、これでは血脈は続いても術技が絶えるのでは? 

 

 その心配はご無用!

  • 二代目竹内常陸介久勝が掟の「役附」で「後見役」「後見代」を策定済!
  • 七代目竹内藤一郎久孝が「後見役」と「後見代」を養成済!

 

 竹内流の「印可」の者は「後見役」です。「免状」の者は「後見代」です。いずれも二代目が定めたもので、掟の役附に明記されています。印可や免状の位は、単なる修業の証ではなくて、流儀の後見という大役が課されているのです。

 

 後見役や後見代は、七代目竹内藤一郎久孝の代から計画的に養成されてきました。いざというときのために流儀の奥義を極秘で託したのです。誰にも教えないと起請神文で誓っている意味がお分かりですか。師の許しによって一子にだけは伝えるという仕組みなのです。俗にいう「免許皆伝」とは意味が全然違うのです。

 

 印可 後見役の代表的な人物としては、杉山彦兵衛為義竹内雅門太久居などがいます。

 

 竹内流は、流儀の術技と血脈を絶やさないために、九代目以降は「竹内流宗家」と「竹内流相伝家」の二本立てとしています。この宗家と相伝家が竹内流の師なのです。

 

*「垪和」=はが

*「本朝武藝小傳」=ほんちょう ぶげい しょうでん

*「捕縛」=ほばく

*「小具足」=こぐそく

*「嫡子」=ちゃくし

*「印可」=いんか

*「免状」=めんじょう

 

 


 

 いかがでしたか。

 

竹内流の基盤は、

戦国時代から江戸時代へかけて

親・子・孫の三代にわたって作り上げられたのですね。

 

その貴重な流儀は、

竹内家を相続する人が師となって

粛々と今に伝えています。